ひとつのあさ

共にグループ内年齢差九つの6人組と7人組をゆるゆる追いかける新参者

あくまでも「アイドルである彼等」が好きだ


私がアイドルを好きだと言うとき、それは彼等の「そとみ」を指して言っている。ここでいう「そとみ」とは、単に外見ということではなく、彼等が世間一般へ見せようと思って見せてくれる姿、言動のことである。
だから、例えば、意図せず暴かれてしまった熱愛報道には無関心を決め込むし、他方、幸せを自らの意思で発表してくれる結婚報道に対してはお祝いの気持ちや言葉を(直接相手には届かずとも)しっかり持つないし表現したいと個人的には思っている。
 
彼等の「なかみ」にまったく興味がないといえば嘘になるかもしれない。
ただどんなに本心を問い質そうとしても、まずこちら側の声を伝える術が相当に限られている。次に運良くこちら側の声が届いたとして、彼等に返答の義務はない。さらに仮に本人に返答の意思があったとしても、メディアやら周りの人たちの意思やらといった幾重ものフィルターが邪魔をするかもしれない。そして無事に手元に届いたかに見える彼等の言葉でさえ、その真偽を見分ける術をこちら側の人間は持っていない。
ほんとのほんとの「なかみ」を知るための行動は、どこかで途絶えるか、結局疑念で終わって元の木阿弥かのどちらかに終始せざるを得ないのだ。
このように、言葉や意思のキャッチボールに多くの難を抱えているという点においては、アイドルとファンは他人どうしとさほど変わらないとさえ言える。
 
先日友人と体育の授業後に「疲れたけど、好きな人を見ることができたから、だいぶ回復したよね」という会話を交わした。ただし、そのときに見た「好きな人」とは、友人は片思い相手の子、私は図書館戦争のポスターに写っている岡田さんだった。内心「ごめんね」と思った。「なかみ」については知る由もない、だから本当の意味ですべてを好きになることも諦めざるを得ない、そんな相手への「好き」と一緒にしてごめんね ──
 
 
と、ここまで「そとみ」「なかみ」とそれらを明確に分け隔てられる表裏一体の存在であるかのように書いてきた。しかしながら、彼等の「そとみ」も「なかみ」も根っこの部分はたった1人の人物に繋がっているはずだ。だから実際のところその2つはまるっきりの別物というわけでなく、共通する部分も(多少はともかく)あるにはあるのだろう。
その区別し難さはときに「そとみ」を見ているだけなのに「なかみ」をすべて見せてもらっているような錯覚を引き起こしてしまいがちで、その、この世のどこかに存在している人を見るとき独特の誤りを、それによって受けるショックを避けようとするがために、「彼等の"そとみ"好きだ」「あくまでも"アイドルである彼等"が好きなだけだ」という言葉を用いているのかもしれない。
 
つまるところこれは半ば自分を諭すための主張だったり。